第2章 ベートーヴェンの生涯




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第3節 ウィーンへ


第2章 ベートーヴェンの生涯

その後ベートーヴェンは、街で出会った医学生ウェーゲラーの紹介で、当時ドイツでも有数の地位にあったブロイニング家の子供たちにピアノを教えることになった。演奏会のない日は毎日通うようになっていた。彼らの前で即興(そっきょう)演奏をしたり長女エレオノーレに恋をしたりするなど、家庭に少しも良い思い出がなかった彼にとって、何もかも新鮮で美しい日々がしばらく続いたが、1787年4月貧しい家計をやりくりしながら、幼い頃からあこがれていたウィーンへ単身出発。1787年春モーツァルトを訪ねて即興演奏を行うなど、本格的に作曲活動を始めたのであった。

しかし、母の病気が重くなり、「母危篤」の知らせが入るとベートーヴェンは急遽(きゅうきょ)帰郷。この中断された旅は、彼を「いつか再びウィーンへ」という気持ちにさせたことだろう。2ヶ月後母が亡くなり、故郷のボンへ戻った彼は、父と二人の弟たちを養うため必死に働かなければならなかった。当時の音楽家の収入というのは、華やかさのわりにはたいしたことがなく、まして彼のように有名ではない音楽家の収入などはたかが知れていた。そんな中でも彼は、『ヨーゼフU世葬送カンタータ』など40曲を作曲。経済的にも精神的にも苦悩する中であっても、なお作曲への情熱は失っていなかったのである。

やがて彼にも幸運が訪れる。ブロイニング家で面識を得たワルトシュタイン伯がウィーン行きの話を実現してくれたのである。伯はウィーンの名門貴族で、ボンに住まいを構え宮廷の音楽行事をつかさどっていたが、ベートーヴェンの才能を高く買い、ピアノを贈ったり暖かい言葉を与えたりした。伯はウィーンこそがベートーヴェンの才能を存分に開花させることのできる街であることを見抜き、実際的な手筈を整えてくれたのである。

伯は、選帝侯自身がベートーヴェンのため尽力してくれるように口添えしたこともあり、宮廷が彼の留学費用を負担することがまず決まった。また伯は、ウィーンの有力貴族たちに紹介状を書き、リヒノフスキー侯をはじめとしてウィーンの社交界でベートーヴェンが受け入れられるように万全の準備を整えた。また1790年12月に、ロンドンからウィーンに帰る途中にボンに立ち寄ったヨーゼフ・ハイドン(モーツァルトの亡き後、当時のウィーンで第一人者といわれた作家)に選帝侯の催した宴席で紹介され、1792年6月再びロンドンからの帰路ボンに寄ったハイドンへ自作のカンタータを見せ、その才能を見込まれていたことも、ウィーン行きの最後の一押しになったに違いない。

昔のウィーン
ベルヴェデーレ宮殿からみたベートーヴェンが移り住んだ頃のウィーン市内

今のウィーン
ベルヴェデーレ宮殿からみた高崎第9合唱団が訪れた1998.10.23のウィーン市内
(左の池は埋め立てられ左右対称な庭園に改修されたが、砂利道も右の噴水もシンボル的建築物も変わらない)

今のブルク劇場
現在のブルク劇場1998.10.23撮影

伯の「努力をすれば、君はハイドンの手からモーツァルトの精神を受け取ることになるだろう」という餞(はなむけ)の言葉を胸に、ボンの人々の暖かい援助に包まれて、1792年11月2日ベートーヴェンはウィーンへ旅立ち、11月10日に到着することができたのである。夢は本人の意志の貫徹、才能と努力と周囲の努力が重なり合ってようやく実現されたのである。21歳であった。

こうしてベートーヴェンは、ウィーン進出の最大の目的であった作曲修業をただちに始めるが、当時師事していたハイドンは、新たな交響曲群(ザロモンセットと呼ばれる12曲の交響曲群のうち後半6曲と思われる)の完成に向け、また自らの海外(主にイギリス)での更なる名声のために全力を傾けていた時期と重なっていたため、ベートーヴェンのこなした課題の回答(245曲)にもわずか(42曲)しか目を通さないままであった。事実ベートーヴェンへの教育は、1793年の暮れまでの約1年間で、中断するように終えてしまったのである。そのような師に対し、ベートーヴェンは少なからず幻滅を覚え、師に知られないように1793年8月頃より、当時オペレッタ作家としても定評のあったヨハン・シェンクやヨハン・ゲオルク・アルブレヒツベルガーに師事し、高度なフーガやカノンを1795年5月まで演習した。

しかし、彼がウィーンで新しい生活を始めてすぐに、父ヨハンが死亡。そして1794年のフランス・ナポレオン軍のドイツに侵入により、大きな援助者の一人である選帝侯が退位させられたことで、学費がストップするなど、すべてが順調だったわけではなかった。やがて、1795年3月、彼はブルク劇場でのコンサートを大成功させ、大勢のファンを増やし、ピアニストとして次第に名前が売れるようになっていった。

当時のウィーンの趣向は、音の均質性、響きの清澄性、軽快な速度感といった、チェンバロ奏法の伝統に根ざしたスタッカート気味のエレガントなクラヴィーア奏法を最上のものとしていたが、そこにベートーヴェンのクラヴコード奏法と北ドイツ風の音楽スタイルの伝統に根ざすレガート奏法の、ウィーンには全く知られていなかったピアノの響きがもたらされ、その新鮮さと叙情性の高さは、たちまちウィーンの聴衆を魅了してしまったのである。

ピアニスト、ベートーヴェンの名声は、新しい演奏スタイルが呼び起こす美しい響きによるものだけではなく、それに加えて即興演奏の名手としての人気によっても広まったのである。ボン時代に通奏低音奏法をしっかり身につけ、宮廷オルガニストを勤めていた彼にとって、与えられた主題による即興演奏は最も得意とするところであった。


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