第2章 ベートーヴェンの生涯




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第5節 苦難をこえて


第2章 ベートーヴェンの生涯

新たな決意は、作品の様式や内容にも影響を与えずにはおかなかった。死を覚悟した人間の強さとでもいうのだろうか。彼はハイリゲンシュタットに滞在中の夏に書きためた分厚いスケッチ帳をかかえて急遽(きゅうきょ)ウィーンに帰り、従来にはなかった充実した筆跡で次々と傑作を完成させていき、またあの輝かしく力強い『交響曲第2番』を完成させたのである。この交響曲の明るい作風からも、そうした苦悩はほとんど感じられず、彼は既に作曲において、自らの不幸な運命を克服していたともいえるだろう。この第2番の第1楽章には、『第九』の第1楽章の主題と同じフレーズも登場する。

1803年3月からアン・デア・ウィーン劇場内の二階の1部屋に住み始めたベートーヴェンは、劇作家や歌手などからオペラ創作の依頼を受けるようになる。当時のウィーンで作曲家としての不動の位置とは、まずオペラで成功することが不可欠と考えられていたのであるが、彼は幸運にも劇場に住み始めたことによって、劇音楽創作への情熱は高まっていったに違いない。実際、この劇場に移って1ヶ月もしない4月5日には、自ら主催するアカデミーで完成されたばかりのオラトリオ『かんらん山上のキリスト』作品85を初演し、また完成されたばかりの交響曲第2番作品36とピアノ協奏曲作品37の初演、および交響曲第1番の再演も同時に行われ、大きな成功を収め、作曲家としてのベートーヴェンの才能と実力は、ウィーンのすべての人が認めるところとなったのである。

次々に来る作曲依頼の中でも、リヒノフスキー侯の依頼により作曲された『クロイツェル・ソナタ』作品47は、ヴァイオリン・ソナタの最高傑作となった。やさしさと戦いが見事に描き出されたこのヴァイオリンとピアノの二重奏ソナタは、後にロシアの文豪トルストイがこよなく愛し、同じ題名の名作を書いている。

同年夏には、オーバーデーブリングにひきこもり、『エロイカ』交響曲の筆を進めるのだが、これと時期を同じくして、後世の人々が「エロイカハウス」と呼ぶようになるこの家に、イギリス・アクションの新式ピアノが、パリの高名なピアノ制作者セバスチャン・エラールから届けられる。ベートーヴェンがいわゆるピアノという楽器に触れたのはウィーンに来てからであった。「鍵盤の花火」という異名をとった彼であったが、その演奏技巧はピアノではなくチェンバロやオルガンで習得したものである。だからこそ彼の弟子のチェルニーはベートーヴェンの奏法をなめるように演奏すると形容し、ベートーヴェンはモーツァルトの演奏を切れ切れに演奏すると感じたのである。

しかし、彼はウィーンに来てすぐにこの新しい楽器の性能と利点を認識し、それこそあらゆる可能性を追求するのである。そうした追求の場がピアノ・ソナタであった。このころより始まったピアノの技術革新により、かつてのピアノの鍵盤にはない高音域やペダルなどが改良され、彼は次々にピアノ・ソナタを完成させることができたのである。そして彼がピアノに最も大きな要求を課した作品は『熱情』ソナタということになるだろう。これは提供を受けたエラール社のピアノ鍵盤の最高音までフルに用いた作品であるというだけでなく、ピアノ・ソナタというジャンルの限界まで行き着いた作品であった。

ベン
若さの残るベートーヴェン メーラー画 1804年作

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