第2章 ベートーヴェンの生涯




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第7節 傑作の森


第2章 ベートーヴェンの生涯

交響曲第3番の初演は1805年4月に行われたが、その頃彼が抱えていた最も大きな仕事は歌劇『フィデリオ』(作者の意向では『レオノーレ』)であった。さらに翌年3月には最初の3幕構成を2幕に短縮した第2稿によって上演されたが、ナポレオン軍のウィーン占領により、ウィーンの音楽愛好貴族の多くが疎開してしまい、多くの聴衆はドイツ語の全くわからないフランス軍兵士たちで占められていたために、わずか3日間の上演だけで幕を降ろさなければならないほどの失敗という結果になったのである。しかし失敗の本当の原因は、上演の不利な条件や状況にあったというより、作品自体の欠点が大きすぎたためであろう。こうして1806年以降、10年以上に及ぶ改訂の歴史をたどることになる。

相次ぐオペラ上演の失敗によって、ベートーヴェンはしばらく『レオノーレ』から離れることになり、創作意欲は室内楽作品と大管弦楽作品へと向けられていった。前年から着手されていたピアノ協奏曲第4番を完成させ、『ラズモフスキー・セット』と呼ばれる3曲の弦楽四重奏曲作品59の第1番、交響曲第4番、ヴァイオリン協奏曲など、この年は彼の生涯の中でもとりわけ多産な1年となってゆくのであった。そして1807年に作曲された『コラリオン』序曲は、ウィーンの宮廷劇場で上演されていたハインリッヒ・フォン・コリンの同名の戯曲からの印象に基づいて作曲されたが、当時はシェイクスピアの同名作品の方が好まれるようになっていたため、この曲は劇に直接付随する音楽ではなく、新しいジャンルとしての『演奏会用序曲』というべきもので、これはロマン派の作曲家たちに多大な影響を与えてゆく。そしてこの劇の悲劇的な終結が、交響曲第5番『運命』では苦難を経て歓喜に至るという、構想上でも密接に関係してゆくことになるのであった。

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