第2章 ベートーヴェンの生涯




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第8節 運命


第2章 ベートーヴェンの生涯

1807年夏、ベートーヴェンの胸の奥深くで、「ダダダ・ダン、ダダダ・ダン。」という一連の音が鳴っていた。後に「運命が戸を叩く音」として有名になる交響曲の主題が、もう4年もの間心の中で鳴っていたのであった。実はこの『交響曲第5番』の主題の部分は、既に1798年に発表した『ピアノ・ソナタ作品10の1』の最終楽章に書かれている。

1798年といえば、ベートーヴェンが28歳の時、最初の耳の不安を感じた年である。自分自身が運命を切り開いていこうとする破壊の音、それを表したのだ。

そして1808年に完成された交響曲第6番『田園』は、『絵画より感情の表出』を目指した作品であるとベートーヴェン自身は語っているが、『田園交響曲』という題名をはじめ、各楽章に与えられた説明の言葉、第2楽章(『小川のほとりの情景』)における小鳥の鳴き声、第3楽章(『農民の楽しい集まり』)や第4楽章(『雷と嵐』)など、実際に描写的要素をふんだんに含んだ作品として、表題音楽の優れた一例となっている。

こうして1807年から1808年にかけて、『交響曲第5番運命』、『交響曲第6番田園』、『合唱幻想曲』の3作品がこの短い期間に作られ、特に『合唱幻想曲』は、16年後に完成される『交響曲第9番』の習作ともいえる形を持っているのだった。

そしてこれらを締めくくるように、1808年12月22日、アン・デア・ウィーン劇場において、ベートーヴェン自身の指揮による演奏会が開かれた。ここでは『田園生活の思い出と題する交響曲』、『大交響曲ハ短調』、『合唱幻想曲』の各初演、この他ピアノ協奏曲、ラテン語賛歌、ベートーヴェン自身によるピアノの即興演奏なども含まれ、歴史上きわめて重要な出来事となったが、『合唱幻想曲』では、パート譜作成が当日まで及んだためまともな練習ができず、練習時に第二変奏は反復しないというベートーヴェンの指示にもかかわらず、本番では彼自身が反復してしまい、オーケストラとの不協和音が響き、演奏会としては失敗に終わったのであった。

ベートーヴェンの生涯には何度かの記念碑的な新作発表の演奏会があるが、この日も晩年の交響曲第9番初演と並ぶ重要なものであった。しかしこれが失敗に終わったことはかなりの精神的ショックを与えたに相違ない。これらのことにベートーヴェンの耳の不自由さが関係していたことは予想に難くないが、この失敗から彼はウィーンに不信感を抱くようになっていき、以前から持ち上がっていた「ヴェストファーレンの宮廷楽長にならないか」という話を真剣に考え始めるのだった。それは宮廷政府高官の年俸を上回るほどの厚遇であったのだから、彼が食指を動かしたとしても不思議ではない誘いであった。

しかし、当時ベートーヴェンに住居を提供していたアンナ・マリー・エルデディ伯爵夫人は、彼の豊かな才能を生計上の苦労によって妨げないために終身高額な年金の支給を3人の貴族たち(ルドルフ大公、ロプコヴィッツ侯爵、キンスキー侯爵)が支払うという契約を結び、彼はウィーンに留まることになったのである。

ところがその直後の1809年5月、ウィーンはナポレオンの率いるフランス軍に再び占領され、またこの戦乱の中でハイドンが77歳の生涯を終えるなど、ウィーンはすっかり荒廃してしまうのだった。このころからベートーヴェンは、耳の病気を再び強く気にしていたようである。フランス軍とオーストリア軍の戦闘による大砲の音が彼の聴覚を痛打し、そのため、彼は弟カールの家の地下室で、クッションを耳に押し当てて過ごす日が多かったようである。

そして翌1810年6月には、劇場支配人のハルトルとの約束であった『ゲーテの悲劇『エグモント』のための音楽』作品84の作曲に没頭した前半を送り、後半はフランス軍の侵略以降の社会的、経済的混乱の影響などから、創作上のスランプの時期を迎えることになったが、翌年も事態はあまり良くならなかったようである。

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