第2章 ベートーヴェンの生涯




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第12節 幻に終わったロンドン楽旅


第2章 ベートーヴェンの生涯

このハイリゲンシュタット滞在もあまり健康を回復することもできず、7月にはヌッスドルフに移って夏を過ごすことになる。肉体的な苦痛を幾分か和らげたのは、ちょうどこの頃にロンドンのリースから届いた手紙であったかもしれない。それにはロンドン・フィルハーモニー協会が冬のコンサート・シーズンにロンドンに招待したいとの申し入れが記されてあった。そして、その来英の際には新しい2曲の大交響曲を高額な契約金で作曲・持参して欲しいとの依頼も記されていたのである。恐らく、ベートーヴェンがこの招待に胸躍らせたに相違ないのだが、新しい交響曲のスケッチは全く記されていない。それほど体調が悪かったとしか考えようがないのだが、秋口には新しい「変ロ長調」の作曲に着手している。

1818年1月は、もしベートーヴェンの健康状態が良ければ、ロンドンに渡っていたところであったのだが、体調だけでなく恐らく経済的な理由と依頼されていた作品が手つかずのままであったことも渡英の決断を鈍らせることになったのであろう。しかしこのチャンスは逃したものの、ベートーヴェンは渡英の希望を捨てたわけではなかった。1825年になってからもロンドン・フィルハーモニー協会からの招待に対して渡英の決心を伝えているし、周囲の友人たちは口を揃えて「ロンドンに一度行くべきだ」と薦めてもいるし、甥カールでさえ「ハイドン氏がロンドンに行ったのは50歳の時だったし、伯父さんほど有名ではなかったのだからきっと成功すると思う」などと薦めてもいる。こうしたことから考えてもロンドンから注文のあった交響曲を作曲しなければという思いが次第に強くなっていったと考えて良いだろう。

ともかく実現しなかったロンドン行きを幾分か悔しく思いながらも、1815年には甥カールを伴ってウィーン郊外のメードリングへ出かけ、ハフナーハウスと呼ばれる家を借りて夏を過ごしている。ここにちょうどロンドンのブロードウッド社から新型のピアノが贈られ、前年から書きかけていたピアノ・ソナタ変ロ長調(いわゆる『ハンマークラヴィーア・ソナタ作品106』)の筆を進めながら、結果的に交響曲第9番第1楽章のスケッチも表れ始めてくるのである。この「二短調」の交響曲のスケッチとは別に、「アダージョの頌歌、交響曲中に教会調による頌歌を加え、終楽章で次第に声楽が加わってくるように。オーケストラの編成は通常の10倍の大きさで」といった別の新たな交響曲への構想がメモとして現れてくる。これこそロンドンから依頼のあった2曲の交響曲となるべきものであっただろう。しかし、これはやがて一つの交響曲の中に統合されて現れることになるのである。

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