第2章 ベートーヴェンの生涯




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第13節 ピアノ・ソナタに終止符


第2章 ベートーヴェンの生涯

ベートーヴェンの筆談帳
ベートーヴェンの使っていた筆談帳
左頁は弟子のシントラー、右頁はベートーヴェンの筆跡

しかしこの年も、甥カールの教育問題で実母と伯父の間で裁判が繰り返されていた。今やこの問題は単に母親と伯父という個人的対立ではなく、双方に多くの弁護士やら証言者を巻き込んだ大問題にまで発展していた。自分の息子をそばに置きたいという母親と、最愛の弟のたったひとりの遺児に、厳格で最高度の教育を与えたいと願う伯父との間に和解の接点は見出せなかったのである。難聴と内臓疾患に加えて精神的な苦悩まで背負い込みながら、再びベートーヴェンは創作への情熱を取り戻しつつあった。

1819年になっても後見人問題の裁判は続いていたが、この年の5月もメードリングに移り、前年同様10月までの半年間をハフナーハウスで過ごしている。そしてこの頃、彼の最大の理解者であり、唯一の作曲上の弟子であったルドルフ大公のオルミュッツ大司教就任のニュースが報じられる。ベートーヴェンは早速『ミサ・ソレムニス』を大公へのお祝いとして大司教就任即位式の行われる1820年3月に間に合わせるべく作曲の筆を執ったのである。しかし、この年も甥カールをめぐる訴訟問題で年が明け、ついに3月9日の即位式典には間に合わなかった。それでもベートーヴェンは大司教となったルドルフ大公のためにこの曲の完成に情熱を傾け、それと同時に信じられないほど多くの大作を完成させようとしていたのである。前年1818年にはウィーンのカッピ・ウント・ディアベリ社の共同経営者で作曲家のアントン・ディアベリが『祖国芸術家協会』と銘打った曲集の出版を思いつき、自作ワルツ主題を当時のオーストリア在住の作曲家などで変奏曲を競作しようという企画を立てていたのだが、結果的にはベートーヴェンを除く50人の作曲家の変奏曲集が出版された。つまり、ベートーヴェンは当初の計画であった小変奏曲を『ディアベリの主題による33の変奏曲』という記念碑的な大作に仕上げてしまい、別の形で出版されることになったのである。

その他にも新しいピアノ・ソナタ3曲(最後の3大作)の作曲にとりかかっているが、1821年の前半は病気がちで、年の始めからリューマチ熱で寝たり起きたりの2ヶ月を送っている。春になっても健康は思わしくなく、ピアノ・ソナタの作曲はホ短調ソナタ作品109のみで中断され、『ミサ・ソレムニス』の筆もあまり進まなかったようである。医師の薦めで初夏からウンターデーブリングに移って静養しているが、ルドルフ大公へ宛てた手紙によるとミサ曲完成が遅れていることを謝罪しながら、「とうとう黄疸症状が体中に出てきてしまいました。」と述べていることから病状はかなりひどく進行していたようである。

同時に全く異なるジャンルの作品を作曲することがどのようなことであるかはわからないが、暮れ近くにはかなり健康を取り戻し、ミサ曲よりもむしろピアノ・ソナタに力を注いだようである。1822年1月1日に、グラーツのシュタイヤーマルク音楽協会から名誉会員に推挙されるしらせを受け、創作に熱中していたベートーヴェンにいくらかの励みになったのであろうか。1月13日にハ短調作品111を仕上げ、ただちに変イ長調作品110を完成させたのである。こうして30年間に及んだピアノ・ソナタ創作に終止符を打ったのだが、彼は古典時代にハウスムジーク(家庭音楽)として成立していたピアノ・ソナタを、深い内容として高度な技巧を持つ芸術様式にまで高め、ソナタ形式の可能性の極限にまで達する音楽を樹立したのである。これが19世紀の後続作曲家たちに与えた影響には計り知れないものがある。

今やベートーヴェンの創作の中心は『ミサ・ソレムニス』と『ディアベリ変奏曲』に向けられることになり、5月頃からはミサ曲の出版交渉を展開している。もちろん作品はまだ完成されていないが、この作品にかける彼の自信と情熱を窺うことができる。

そして秋にはペテルブルクの音楽愛好貴族ニコラス・ガリツイン侯から新たな弦楽四重奏曲の作曲の依頼を受けるが、ベートーヴェンはこの依頼を受ける半年ほど前から弦楽四重奏曲を構想しており、未着手ながらまさに渡りに舟というタイミングであった。

1823年3月19日に正味4年間をかけて書き続けてきた『ミサ・ソレムニス』をルドルフ大公の許に持参し、『ディアベリ変奏曲』も4月に出版されることになった。ガリツイン侯からの依頼はあったものの、今やベートーヴェンは懸案の『第九』に専念するときとなった。4月上旬のある日、ベートーヴェンはある父子の訪問を受けていた。半年ほど前から彼の身の回りの世話をするようになっていたアントン・シントラーに伴われてやってきた訪問客が、筆談帳に残した言葉は、「私は13日の日曜日に演奏会を開きます。是非ともご来席いただきたくお願い申しあげます。」となっている。ベートーヴェンの弟子であったカール・チェルニーにピアノを習っていた11歳のリストであった。リストが後半の思い出として語るところによれば、演奏会に来てくれたベートーヴェンはステージに上がってきてリストを抱き上げてキスしてくれたということである。

初夏からヘッツェンドルフ、8月後半からはバーデンに移り、『第九』の筆が急ピッチで進められ、この年は例年より長くバーデンに滞在したらしい。

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