第2章 ベートーヴェンの生涯




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第16節 雷鳴で送られた最期


第2章 ベートーヴェンの生涯

カールが退院して3日目の9月28日には、カールと弟ヨーハンの3人でヨーハンの農場のあるグナイクセンドルフに静養をかねて出かけ、ドナウ渓谷の高台にある美しい景観を持つヨーハンの家で11月末日までの2ヶ月間を過ごすうちに、最後の作品となる「へ長調」四重奏曲を仕上げ、また作品130のための『大フーガ』に代わる新しい終楽章も完成させている。暮れのウィーンでの演奏会や新作の出版交渉も気になり始めたベートーヴェンは、12月1日の早朝に突然ウィーンに帰宅することになる。予約が必要な駅馬車も準備できず、厳寒の冬の朝に幌も付いてない牛乳運搬馬車でグナイクセンドルフを後にしたのである。

防寒コートもなく馬車を駆り、途中で一泊しなければならなかった宿には暖房もなく、カゼから高熱を出し、一晩中寒さに震え翌朝再び馬車に揺られてウィーンに帰り着いた時には、かかりつけの医者の往診の都合がつかず、12月3日と4日を自宅で耐え、5日にようやくホルツが連れてきた総合病院のヴァヴルフ博士の診断を受けたのであった。6日にも2回往診しなければならないほど体力は衰え、肺炎も危険な状態を起こし、12日には強い黄疸が現れ、夜間には発作的な呼吸困難も起こし、腹水も大量にたまるほど悪化していた。ヴァヴルフ博士は同僚のシュタウデンハイム博士と相談し、腹水を抜く手術が緊急を要するとの結論に至り、外科部長ザイベルト博士の執刀により12月20日に第1回目の手術が行われたのである。

1827年3月26日に56歳の生涯を閉じるベートーヴェンに残された4ヶ月弱は病床生活となる。しかし、体力の衰えとは逆に悟りの境地に至ったベートーヴェンは、イギリスから「ヘンデル全集」を取り寄せるなど、もし健康が回復すればオラトリオを書きたいという考えを強く持ち、楽曲の研究を続けている。ベートーヴェンの重体の噂はウィーン中に知れ、毎日のように旧友や知人たちが見舞いに訪れ、その都度ベートーヴェンは気丈ぶりを発揮し、駄洒落さえ口にするほどであったという。恩人への礼状やら出版に関する事務的通信をシントラーたちに口述させ、3月23日には遺書を認め、翌24日には見舞い品としてマインツのショット社から送られてきた「1806年物リューデスハイム・ワイン」を横目にしながら、「残念、残念、遅過ぎた」と言うだけで、もはやグラスを口に運ぶ気力さえ失っていた。この日に医師団は司祭を呼び、終油の秘蹟を授けると、この晩から昏睡状態に陥ったのである。そして3月26日午後5時45分、2日間の昏睡から目覚めた彼は、両目を見開き、右手拳をふりあげて一点を見つめ、無言のまま手を落とすと同時に永遠の眠りについたと言われている。最後の住居となったシュヴァルツシュパニエルハウス(シュヴァルツシュパニエルシュトラーセ15番地)の庭には春の残雪が、時ならぬ稲妻に輝き、雷鳴が轟いていた夕方のことであった。

ベートーヴェンのお墓(筆者撮影)
ウィーン中央墓地に改葬された墓標1998.10.23撮影

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