第4章 ベートーヴェンの不滅の恋人




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第4章 ベートーヴェンの不滅の恋人


ジュリエッタ・グィチャルディ(ガルレンベルグ伯爵夫人)

『不滅の恋人』が1800年に知り合ったブルンスヴィック伯爵家の姉妹たちのいとこ、「ジュリエッタ・グィチャルディ」であるとしたのは、遺言執行人の1人アントン・シントラーが出版したベートーヴェンの伝記のなかで、シントラーがそう主張したからである。
 その根拠の第一は、ベートーヴェンの生前にベートーヴェンからこの女性の名前を聴いたこと。第二に、作品27-2『月光ソナタ』が彼女に献呈されていること。第三に秘密の引き出しから発見された女性の細密画の一枚がジュリエッタの息子によって彼女のものであると確認されたからという。
 もう一人の遺言執行人シュテファン・ブローニングは、ベートーヴェンの後を追うように数ヶ月後に他界してしまい、永いこと誰もシントラーの説を疑うものはいなかった。
 ジュリエッタの母親は故ブルンスヴィック伯爵の妹、つまりテレーゼたち叔母である。ベートーヴェンはジュリエッタと恋愛関係になり、1801年11月16日付けの親友ウェーゲラー宛ての手紙で彼女との恋は「結婚して幸福になれるだろうと考えたのは今度が初めてだ。」とそのことを吹聴して書いている。ベートーヴェンの自慢にもかかわらず、華やかで奔放なジュリエッタは、身分の違いからガルレンベルグ伯爵と結婚してしまう。
 『月光』ソナタは 1801年作曲、幻想的な美しい曲でジュリエッタに捧げられた。『ムーンライト・ソナタ』とも呼ばれ、ベートーヴェンが目の見えない少女のために月光の中で作ったとか、別れの曲として作ったとか、他にも様々な伝説を生んでいる。ジュリエッタに『月光』ソナタを捧げた7ヶ月後、1802年10月ベートーヴェンは「ハイリゲンシュタットの遺書」を書かれているが、耳の障害があったとしてもこの遺書がジュリエッタと直接の関係があったかどうかは定かではない。

テレーゼ・フォン・ブルンスヴィック

死後50年を経て、最初の異説は有名なセイヤーの伝記「ベートーヴェンの生涯」によってとなえられ、ブルンスヴィック伯爵令嬢テレーゼこそがそれであるとされた。その決め手として、才気煥発型の長女テレーゼは、ピアノの腕前も教養も相当高い女性で、1806年ベートーヴェンとの婚約しており(1810年破棄)、またT・Bの頭文字から判断して彼の遺品の中に残された彼女が描いて贈った肖像画が保存されていたことであるとして、不滅の恋人の有力候補とされていた。その肖像画は現在、ボンのベートーヴェン・ハウスに展示されている。でもそれは永いこと伝えられていたような秘密の引き出しから出たものではなく、ずっと大きいものである。

ジョセフィーヌ・フォン・ブルンスヴィック(ダイム伯爵夫人)

ブタペスト近郊マルトンヴァーシァルにはブルンスヴィック伯爵家の別邸があり、テレーゼ、弟フランツ、妹ジョセフィーヌ、末娘シャルロッテの四人がいた。ベートーヴェンとの運命的出会いは1799年5月、レッスンを受ける目的で、ブルンシュヴィックの姉妹テレーゼとジョセフィーヌが伯爵夫人につれられて彼に会ったときである。
 その頃、若くて気難しい巨匠ベートーヴェンは、人嫌いで会うことも無理であろうとウィーンで噂されていた。ところが話とはおよそ違い、ベートーヴェンはすぐさま親密に打ちとけ、熱心にレッスンを行うようになった。ベートーヴェンとの18日間の交際が、後にすべての人々にとって運命的なものとなった。
 ジョセフィーヌはその後ただちに結婚させられダイム伯爵夫人となったが、不幸な結婚で社交界から締め出され毎年出産していた。そんなときでも彼女はしばしばベートーヴェンの訪問を受けていた。夫ダイムは投機に失敗して破産状態に追い込まれ、1804年1月ダイム伯爵が旅先のプラハで急死。まもなく四人の子の母になろうという24才の若い彼女にとって突然に訪れた夫の死の衝撃は大きかった。
 この1804年の秋頃からベートーヴェンとジョセフィーヌは急激に親密度を増し、これを姉妹は心配し、妹シャルロッテは「これは少し危険です。そう言ってもかまいません」と心配するほど進展し、長引くほどに深く静かに進行していく。
1807年末、最後は互いの立場を考えた二人が理性的に決着をつけてこの恋は終わるが、後に彼女がベートーヴェンの子を産んだという推測もあり、これは全く否定できない状態にある。
 ジュリエッタとテレーゼがベートーヴェンの伝記のなかで主役であった間、ジョセフィーヌはずっと忘れ去られていた。しかし、そもそも『月光』ソナタを最初に弾いたのもジョセフィーヌであり、エロイカ、アパショナータ、レオノーレなどロマン・ロランが「傑作の森」と呼ぶこの時期の作品群を、完成される前のスケッチの形で聴いたのはジョセフィーヌだけである。

アッパーショナー(熱情)

 1807年2月、2年前から創作された作品57のピアノ・ソナタ『熱情』を「我が友にして兄弟なるフランツ」に献呈した。しかし女性ばかりに囲まれて育った不感症な「氷の騎士」とあだなされる人物に贈る作品としては『熱情』は全くふさわしくなく、思い描いていたのはジョセフィーヌであろう。
 さらにベートーヴェンにとって運命はもう一つの痛撃、奈落の底に突き落とす事実が重なった。確かにベートーヴェンは彼女を愛した。しかし前述のように、ジョセフィーヌは最終的にはダイム男爵と不幸な結婚をしてベートーヴェンから去っていった。それも姉のテレーゼの骨折りと采配によって。
 だが経済的に失敗した男爵の失踪から、彼女は非常な経済的苦境に落ち入り、それをベートーヴェンは懸命に援助した形跡がある。永いことある時期のベートーヴェンは社会的変革、貴族の没落によって困窮の時期があったとされていたが、ベートーヴェンに支払われた出版社からの金額の調査などによって、彼の経済状態はかなり良かったことが判明している。
 そして、ベートーヴェンに運命の最後の一撃を与えたのは、ジョセフィーヌの最後の子供はベートーヴェンの子供ミンナ・ベートーヴェンであり、その出産をウィーンから離れて助けたのはテレーゼであり、そのことを1812年の同じ時期にベートーヴェンは多分同じカールスバッドで知らせを受けた。しかもテレーゼから。それがベートーヴェンにとって、どんな衝撃であったことか。
 それ以後に書かれた「ひたすらに運命に耐えるべき」とか胸を掻きむしるようなベートーヴェンの絶望の言葉は、重大な事実の知らせを意味していることである。このベートーヴェンの1813年の危機は精神的に深刻だったに違いない。
 テレーゼは生涯独身であったこと、彼女は孤児院を経営してそれに献身的に尽くしたこととの暗黙の符号。テレーゼは永いことベートーヴェンの『不滅の恋人』とされていて、後年彼女は質問を受けても一切について一言も語らなかった。ジョセフィーヌの運命を差配した自責の念と共に、万感の思いがそこにあったことの証明であろう。

肖像画

1807年5月11日付けの手紙で、テレーゼ自身の肖像画を早く贈ってくれるようベートーヴェンは頼んでいる(現在ボンにある)。この手紙に触発され、ブルンシュヴィックの三姉妹は自分の肖像画をベートーヴェンに贈ったと言われている。
 当時、一人の女性が男性に肖像画を贈るというのは、特別なニュアンスを含むのだが、もしそれが3人であればニュアンスも相殺される。テレーゼと共に贈られた写真はジョセフィーヌとシャルロッテであって、つまり、秘密の引き出しの中にあった、ジュリエッタとされていたものがジョセフィーヌであり、エァデーディ夫人とされたのがシャルロッテであるという推論は成り立つ。
 1809年にベートーヴェンは作品78のピアノ・ソナタを肖像画のお返しとしてテレーゼに贈っている。

マリー・エァデーディ伯爵夫人

そのもう一枚の細密画は永いことマリー・エァデーディ伯爵夫人のものとされてきたが、この細密画は残されている他のエァデーディ夫人の面立ちと明らかに違い、またジュリエッタとされていた細密画についても別人説が現れた。その理由としては、ジュリエッタと認めたのが彼女の息子であり、自分の母親の17才当時を見たことがないため誤認の可能性は否定できないということである。
1807年の末頃、ジョセフィーヌがベートーヴェンから去った時、ベートーヴェンは深い絶望感を抱いていたに違いない。その心の重荷を受け止めてくれる人がいたとしたらそれはエアデーディ伯爵夫人だろう。二人の出会いはヴァン・スィーテン男爵家の音楽会であり、1804年にベートーヴェンは引っ越してきて彼女の隣人となり、二人の親交は始まった。
ベートーヴェンは彼女を自分の「懺悔聴聞僧」などと呼び、それからは長年自分の恋の悩みを逐一打ち明けていたようである。
1807年ジョセフィーヌと別れたあと、エァデーディ伯爵夫人の家に身を寄せていたことは1808年11月12月のベートーヴェンの手紙で、自分の住所をエァデーディ伯爵夫人方としていることからわかる。しかしそれも長続きしない。ベートーヴェンは彼女の家を出て、二人の交際が再び心のこもったものとなるのは1815年から後のこと。
ベートーヴェンは後に作品 102のチェロ・ソナタ二曲を彼女に捧げている。これは ベートーヴェンが恋愛感情抜きで、そうした感情が醒めた後でも異性に対して暖かい友愛と感謝の気持ちを持ち続けた一つの証であるとされている。

アントニー・ブレンターノ

銀行家ブレンターノと結婚したアントニーは、決して不幸とはいえないまでも夫との性格の違い、また大家族の主婦としての負担に疲れ、三年このかた病気の父親を看病方々ウィーンに来ていた折りにベートーヴェンとの出会いがあって、次第に心が通うようになった。父の死後、遺産財産を整理してひそかにイギリスに行きを計画し、新しい生活をベートーヴェンと共に持つことを彼女は考えていたといわれている。
そこへ突如としての体の変調、すなわち思いもかけなかった妊娠、それもこともあろうに殆ど別居同然であったのに夫ブレンターノとの「別れの儀式」によるこの突然の異変によって、彼女はもう錯乱状態に落ち入りかけたのである。
それを極力なだめるベートーヴェンの愛の手紙、そう考えることによって、あの激情愛の奔流の文面と、できるだけ早まったことがないようになだめめすかし懇願する奇妙な調子の説明合点がゆくのである。
ベッティーナの結婚をベートーヴェンに伝えたのはベッティーナの兄フランツブレンターノの妻、アントニー・ブレンターノである。病に臥しがちなアントニーをしばしば見舞いに訪れた彼は、隣室からピアノを弾いて慰めることも少なくなかった。彼がトニーと親しげに呼んだこの女性は現在「不滅の恋人」の最有力候補とみなされている。家族関係の難しいブレンターノ家を逃れて、父の財産処分を理由に故郷ウィーンに帰ってきたこの女性との関係は、夫がいることもあって表面に出すべきものではなかった。彼女とはたびたび彼が避暑地に訪れていたボヘミアのテープリッツで密会し、そのことが彼女を不滅の恋人としてクローズアップされた理由となっている。
もちろんトニーと解釈すればT.B.と一致する。

ベッティーナ・ブレンターノ

フランクフルトの名家の娘ベッティーナはフランツ・ブレンターノの妹、この時25才、同じイタリー系で黒い髪と黒い瞳をしていた。彼女は当時アルニムと婚約の間柄であり、1809年ウィーンにきて姻戚関係にあるビルケンシュトック家に泊まり、そこでベートーヴェンと出会った。彼女は持ち前の知性と感覚の良さでベートーヴェンの本質を即座に捉え、ベートーヴェンの芸術に感激し、それをゲーテに伝えることにより、ベートーヴェンとゲーテとの橋渡しをすることになったといわれている。ベッティーナの書いたベートーヴェンの人柄、芸術に関する考察によって、ゲーテはベートーヴェンに関心を抱くようになった。いずれにしても、ベッティーナはベートーヴェンにとって真の友を得たと思ったようであるが、彼女も他の男性と結婚する。

ドロテア・フォン・エルトマン男爵夫人

こうした友情の例としてドロテア・フォン・エルトマン男爵夫人をあげることもできる。ベートーヴェンからピアノ・ソナタ作品101を捧げられた彼女は、ベートーヴェンの作品をよく演奏し、ベートーヴェンの死後、彼女の努力がなかったなら、ベートーヴェンはもっと早くウィーンから忘れ去られていたかも知れないとされている。

テレーゼ・マルファッティ

1809年はベートーヴェンにとってもう一つの珍しい年となる。この3月エァデーディ伯爵夫人と喧嘩別れをして以来、ベートーヴェンの身辺には一人の女性の影もなかった。そのせいか、彼は8才若いグライヒェンシュタイン男爵に結婚を前提として「妻探し」を依頼している。
そして、グライヒェンシュタインが当時しげく出入りしていた世襲貴族ではなかったが、上流貴族の一員であった裕福な地主マルファッティ家には、アンナともう一人18歳の黒髪の乙女テレーゼ・マルファッティとがいた。たちまちベートーヴェンはこのテレーゼに熱をあげ、精一杯のおめかしをして彼女に結婚を申し込むが、拒絶されている。

エリーゼのために

後世ポピュラーとなる『エリーゼのために』のエリーゼとは、ベートーヴェンの悪筆によって、テレーゼをエリーゼと読み誤らせたものだと言われている。

恋文について

遺品として発見された宛名も日付も書かれた場所もわからない3通の恋文という証拠を巡り、当時の気象記録、古文書、当時の新聞、関係資料、秘密警察の記録文書、当時の駅馬車、郵便馬車の発着時刻までの綿密な調査が行われ、問題の手紙は1812年、ボヘミアの温泉地テープリッツからカールスバートにいたブレンターノ夫人に向けて書かれたものであり、ベートーヴェン42才の夏ということが推論できるとしている。

未知の女性

そして「未知の女性」説、イコール『不滅の恋人』が有力とされていたベートーヴェンの恋人候補であったジュリエッタとテレーゼは、『不滅の恋人』ではないことが明白となった。
 確かに二人がベートーヴェンの青春に密接な関係があったことは確かだが、このきわめて対照的な二人の女性は従姉妹同士で同じ家系ブルンスヴィックであり、その中にはベートーヴェンがもっと心を魅かれたもう一人の女性、ジョセフィーヌがいたからである。

新しい恋文

1949年になって、突如1804年から4年間にわたってジョセフィーヌ宛てに書かれたベートーヴェンの13通の恋文が現れた。(正確にはベートーヴェンの肉筆と、彼の手記をジョセフィーヌが自分のノ−トに書き写したもの一通、それと彼女自身のベートーヴェン宛の下書き7葉)。この手紙類の出現は大事件だった。
 公表されたベートーヴェンの手紙のなかで、これほど切実に心を打ち明け、深刻に異性に愛を告白したものは他になかった。それは『不滅の恋人』への手紙すら色あせる程だが、色々曲折を経てこの恋は実らなかったのである。
 ジョセフィーヌは最後に「誠実な、愛する、良き、ベートーヴェン、私の方がもっとあなたよりも苦しんでいるのです、はるかに多く」と記されている。1807年以降ジョセフィーヌはベートーヴェンに会っていない。しかし、ジョセフィーヌに宛てて書かれたベートーヴェンの恋文によっても『不滅の恋人』の謎が解かれたわけではない。なぜならば、この恋の関係は少なくとも1807年の秋頃には終末を迎えているからである。
 また、ロマン・ロランはいっているが、ベートーヴェンと深い係わりのあった女性たちは、なぜか皆不思議なくらい沈黙を守った。それぞれの女性は、この魅力に満ちた天才との思い出を聖遺物のように心に秘めたまま生涯を閉じている、と彼は言っている。
 ジョセフィーヌは、ベートーヴェンよりも6年先立って世を去っているため、その存在は一層影の薄いものとなっている。
 今世紀になってテレーゼの研究が進むにつれて、妹ジョセフィーヌの存在がクローズアップされることとなった。テレーゼが35才過ぎてからつけ始めた『日記』と70才になってから執筆した『回想記』のほかに姉妹の間で交わされた手紙類は、ベートーヴェンの人間像を肉付けする上で貴重な資料となっている。それはともかく、ジョセフィーヌは自分自身を保持したまま自由恋愛に生きるには、信仰とモラルがそれを許さなかったのである。
 彼女は自分の掟を守りつつ、ひたすらベートーヴェンの自制とモラルを頼んだ。そして1811年に家庭教師だったクリストフ・シュタッケルベルグ男爵と結婚したのだが、この結婚は彼女の不幸をさらに大きくしただけだった。

真の『不滅の恋人』は誰か

今まで、あまりにもベートーヴェンの身近な交友関係のなかにあったがため、そして既に結婚していたために考慮から外されていた女性がにわかに脚光を浴びることとなったのは不思議である。それがフランクフルトの銀行家ブレンターノ夫人ではなかろうかと目指されたのは、後期のピアノ・ソナタ作品109がブレンターノの娘、マキシミリアーネに献呈されたことに端を発している。
 作品に込められたベートーヴェンの様々な思い、第2楽章の主題変奏の連作歌曲集『遙かなる恋人に寄せる』の心を込めた旋律をひそかに忍ばせたベートーヴェンの心情は、たとえこの娘マキシミリアーネが彼の晩年の身辺に現れたとはいえ、若い娘に対するベートーヴェンの慕情の思いが急に沸き上がったとは考えられない。
 むしろその娘を通してその母親、アントニーすなわち通称トニーと呼んだ女性に、ベートーヴェンは切々とした思いをもう一度伝えたかったと考えることによって、すべての疑問は解決すると思える。

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