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年号 |
年齢 |
で き ご と |
1770 |
0 |
12月16日、ドイツのボンに生まれる。父は宮廷歌手のヨハン、母はマリア・マグダレーナ。ベートーヴェンは成人してからもずっと自分の歳を1歳若く、間違えて覚えていた。それは父親が、少年ベートーヴェンを第ニのモーツァルトとして売り込もうとして歳を1つごまかしていたからである。 |
1774 |
4 |
父にピアノとヴァイオリンを習い始める。弟カールが生まれる。 |
1776 |
6 |
弟ニコラウスが生まれる。 |
1777 |
7 |
ボンの小学校に入学。この年、ボンの宮殿が火事になる。 |
1778 |
7 |
ケルンで、ピアニストとして公開演奏会にデビューする。「様々なクラヴィーア協奏曲やトリオ」を披露。 |
1781 |
11 |
小学校を退学。ネーフェ先生に師事し、正式にピアノと作曲の勉強を始める。この年、母と一緒にオランダへ演奏会旅行もしている。 |
1782 |
12 |
この頃、医学生のウェーゲラーと知り合い、最初の作品『ドレスラーの行進曲による9つの変奏曲』を出版。神童モーツァルトとはタイプが違うとはいえ着実に成長し、12歳頃までには田舎町ボンで他に並ぶ者のないほどの音楽家になっていた。 |
1783 |
13 |
本格的に作曲活動を開始。最初の正式な就職はこの13歳のときで、職種はボン宮廷の第ニオルガニスト。 |
1787 |
17 |
シラー、自費出版雑誌『ラインニッシェ・ターリア(ラインの美の女神)』第2号に、『歓喜に寄す』を発表。全ドイツ語圏へ広まり、フライマウレル(進歩的な合理主義と国際平和の団体)の集まりでよく歌われる。ベートーヴェンは「この詩の全編に音楽をつけたい」とボンを離れる前に言っていた。 |
1787 |
17 |
初めてウィーン旅行に出発。モーツァルトを訪ね、すばらしい即興演奏でモーツァルトを感服させたとの伝説があるが、真偽のほどは定かではない。ただ、ウィーンでモーツァルトのピアノ演奏を聴いたことはあるらしい。ベートーヴェンの弟子でありピアノ教則本で有名なツェルニーによると、後年ベートーヴェンは、モーツァルトの演奏について『見事ではあるが音がポツポツ切れてレガートでなかった』とやや批判的に述べていた。「母危篤」の知らせによりわずか2週間弱の滞在でボンに帰るが、約2ヶ月後にやさしかったと伝えられる母アンナ死去。 |
1788 |
18 |
ブロイニング家の子供たちにピアノを教え始める。エレオノーレに初恋。 |
1789 |
19 |
シラーの詩にフランス啓蒙思想が触発され、民衆の力によるフランス大革命が起こる。しかしドイツ啓蒙思想のシラーは、君主制の中で観念的な理想国家を目指すものと逃避。 |
1792 |
22 |
再びウィーンに出発、ハイドンに弟子入りする。アル中同様になっていた父ヨハン死去。二人の弟たちの面倒をよくみる感心な兄ぶりだった。 |
1794 |
24 |
リヒノフキー侯爵ら、ウィーンの貴族たちと親しくなり、社交界に名を広める。オルガニストの職の他にピアノの教師もはじめ、その中からブロイニングやヴァルトシュタイン伯爵といった生涯の友人もできる。ブロイニング家の娘とベートーヴェンの初恋?も伝えられている。フランス革命に共鳴し、自由主義的な思想をいだくようになるのもこの頃。 |
1795 |
25 |
作曲家、ピアニストとしてブルク劇場にデビューする。ボンから弟たちをウィーンに呼び寄せる。本格的にウィーンに移り、ヴァルトシュタイン伯爵の紹介もあり、才能あふれる新進ピアニストとして着々と名声を築いている。ベートーヴェンは、公式には一応ハイドンの弟子ということになっているが、ハイドンは多忙ゆえか音楽性の違いゆえか、あまりベートーヴェンを可愛がらなかった。ハイドンに内緒で?他の先生にも習ったりもしている。その中には、映画『アマデウス』で有名になったサリエリもいた。 |
1796 |
26 |
ヨーロッパ各地を演奏旅行。ピアニストとして人気絶頂となり、作曲家としても大作を発表し始める。順風満帆にみえるが、30歳になる少し前くらいから、耳の疾患が始まる。 |
1798 |
28 |
この時期に書かれた名曲に『悲愴ソナタ』がある。この曲は耳の異常に気がついたベートーヴェンのショックや苦悩を反映しているとみる人もいた。ベートーヴェンというと、つい実人生と作品を結びつけたくなるが、仮に『悲愴』がそうだとしても同時期に明るい曲も書いている。たとえば『悲愴』を出版した翌々年に『交響曲1番』の初演が行われている。この曲はハイドンなどにも通じる明朗快活な気分と、調性や楽器の使い方などの点でより新しい進取の精神に満ち、洋々たる未来に向けベートーヴェンがついに船出をしたといってよい曲である。 |
1799 |
29 |
ブダペスト近郊マルトンヴァーシャルに住むブンルスウィック伯爵の二人の令嬢、テレーゼとヨゼフィーネにピアノを教える。 |
1800 |
30 |
初めて自分で演奏会を開き、『交響曲第1番』を指揮する。 |
1801 |
31 |
このころ手紙でウェーゲラーに、前から悩んでいた耳の病を打ち明ける。ベートーヴェンのものと言われ残されている髪の毛を2000年になって分析したところ、高濃度の鉛を検出。これは通常生活の蓄積量の100倍以上であり、当時ベートーヴェンが好んで飲んでいたワインまたは水のいずれかに鉛が含まれ、ベートーヴェンもこれによる鉛中毒にもなっていったと見られている。 |
1802 |
32 |
ウィーン郊外のハイリゲンシュタットにおいて、夏の間滞在して療養に努めるが絶望し、「ハイリゲンシュタットの遺書」書く。現在5~6軒の『ベートーヴェンの家』が残っている。 |
1804 |
34 |
交響曲第3番『英雄』を作曲。しかし、ナポレオンが皇帝についたと知り失望する。 |
1805 |
35 |
フランス軍がウィーンに侵入。歌劇『フィデリオ』を初演するが、ウィーンを占領しているフランス兵相手にドイツ語の歌劇を行ってもわかってもらえず失敗。 |
1808 |
38 |
アン・デア・ウィーン劇場で『運命』と『田園』が初演される。 |
1812 |
42 |
テープリッツでゲーテと会見。 |
1814 |
44 |
『レオノーレ』を改題の歌劇『フィデリオ』を上演し、大成功をおさめる。 |
1815 |
45 |
弟カールが亡くなり、その息子カールの後見人問題で心を痛める。 |
1818 |
48 |
このころ耳がほとんど聞こえなくなり、会話も不自由になる。 |
1824 |
54 |
ケルントナートーア劇場で、『交響曲第9番』を初演。 |
1826 |
56 |
甥のカールが自殺未遂をする。この冬、厳しい寒さの中を牛乳馬車でウィーンに帰り、肺炎にかかる。 |
1827 |
56 |
病状が悪化し、数度の手術の甲斐もなく、3月26日午後5時45分永眠。葬儀は3日後にウィーンのトリニテ教会で行われ、多くの人々が参列した。 |