第2章 ベートーヴェンの生涯




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第4節 成功から苦難へ


第2章 ベートーヴェンの生涯

ちょうどこの頃から経済的に多少のゆとりができ、貴族界の中にも信頼を得たベートーヴェンは、ボンから二人の弟たちをウィーンに呼び寄せている。しかし二人ともそれぞれ就職はしているものの、当面の間兄から経済的援助を受けていたようだ。既にボンにいた時から、父に代わって一家の大黒柱を努める立場にあったベートーヴェンの弟たちに対する接し方は、長兄の立場というより父親的性格が非常に強く現れているのである。

1796年2月ベートーヴェンは、家主リヒノフスキー侯と共に、プラハ→ドレスデン→ライプツィヒ→ベルリンと続く大旅行に出る。リヒノフスキー侯は、プラハの音楽界にベートーヴェンを紹介し、プラハ以降はベートーヴェンの単独行動となるとはいえ、その行く先々への紹介状を持たせ、まるでモーツァルトの足跡をたどるかのように旅行した。

約2ヶ月を過ごしたプラハでは、モーツァルトと親交のあった音楽家たちと楽しい日々を過ごし、その後の1週間をドレスデン、ライプツィヒに3週間、そして最後の1ヶ月余りをベルリンで過ごしている。この約半年間にも及ぶ旅行でベートーヴェンは、有力貴族たちの前で演奏したり、アカデミー主催の演奏会に出演したりと、多くの作品を生み出しては聴衆の喝采を浴び次第に名前を広めていった。

ベルリンから帰ったベートーヴェンは、3つのピアノ・ソナタ作品10、3つの弦楽三重奏作品9、ピアノ・ソナタ第8番『悲愴』作品13などを次々に完成させ、さらに1799年には、弦楽四重奏曲へ長調作品18を完成させ、作曲家としての大躍進を試みるようになる。弦楽四重奏という分野では、既に傑出したハイドンやモーツァルトの作品が知られていただけに、ベートーヴェンとしては最も精神を集中して作曲したものと思われる。作曲に自信を持ち始めた彼は、いよいよ長年の夢であった交響曲を本格的に完成させることになる。最初の構想は1788年に求めることができるが、本格的に創作を進め、ほぼ完成させたのは1799年であった。

こうして1800年4月2日、初めて自ら主催するホーフブルグ劇場でのアカデミーにおいて、この交響曲第1番ハ長調作品21は初演され、経済的のみならず作曲家としての名声も次第に広まり、ブルンスヴィク伯爵の姪にあたるジュリエッタ・グイチャルディや、彼の生涯で大きな役割を果たすと同時に優れた伝記的証言や覚書を残すことになるフェルナント・リースなど彼を慕って、弟子入りを希望する者も増えていったのである。

そして1802年は、また別の意味で彼の生涯において大きな節目となっている。いくつかの明らかな証言や書簡によって、ベートーヴェンが1796年から母親からの遺伝性中耳炎にかかっていたことは確かなことであるが、こうしたピアノの弟子たちを魅了するに充分な作品を次々と作曲し、また大作の依頼も次第に数を増すなど、音楽家として本当の意味での真剣勝負はこれからという時期に、最初の重傷状態が訪れたことは何とも皮肉なことであった。

それ以来、彼の演奏の仕方はすっかり変わってしまう。彼は不安そうな手つきでキーに指を置き、そしてそっと辺りをうかがうようにしてから、おそるおそるいくつかの和音をそうやって叩き、まるで何かを確かめるようにしながら、やっと全体を弾き始めるのだった。

1801年彼はたまりかねて友人の医者ヴェーゲラー、牧師アメンダに相談してぬるま湯に耳をつけたり、油を耳に入れてみたり、冷水浴をしたりといろいろな治療をやってみたが効果は見られない。1802年10月、ウィーン郊外のハイリゲンシュタット(プロブスガッセ6番地)に引きこもった彼は、作品27「月光」を捧げたジュリエッタ・グィチャルディのガルレンベルク伯爵との結婚と耳の病気という絶望の淵で、二人の弟たちにいわゆる「ハイリゲンシュタットの遺書」と呼ばれる遺書を書いている。

「我が弟へ。私の死後に読まれ、実行されること。

昔あった、あの懐かしい「希望」。

この地なら、少しは良くなるだろうかと思ってやって来たのに、その望みも断たれてしまった。人に聞こえて自分に聞こえないときには、どれほどの屈辱感を味わったことだろうか。そうしたことに出会うと、全く絶望し、すんでのところで自殺しようともした。

そうしたとき私自身の芸術だけが、生へと引き戻してくれたのだ。ああ、自分の中に持っているすべてを生み出すまでは世を棄てることなどできないと思い、だからこそこのみじめな存在を耐えてきたのだ…〈中略〉…恵みない運命の女神が命の繩を切るまでは、この決心を持続させてほしい。いくらかでも快方に向かうか、あるいは悪化するか、覚悟はしているのだ。

私の死後、もしシュミット教授(主治医)がまだ存命であられれば、私の病気について所見を書いていただくようにお願いし、そこに私のこの手紙を添えてほしいのだ。そうすれば、私が生前与えた誤解も解けるだろう。わずかな財産は平等に分けてくれ。楽器類は、どちらかが持っていてくれ。しかし、生活に困ることがあったら売ってほしい。墓の下にいてもなお、お前たちの役に立ちたいのだ。

やり残したことをせずに死を迎えるのは口惜しい。死が遅く来ることを願う。でももし、死に神が早い死を望むならうけてやろう。やって来い、死よ。さようなら。私の死後も、どうか私を忘れないでくれ。」

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
ハイリゲンシュタットにて
1802年10月6日

このハイリゲンシュタットの遺書と呼ばれる遺書はついに投函されることはなかった。彼の死後、机の中にしまい込まれていたところを発見され、初めて世に出たのである。

これは現在の解釈では「新たな生への宣言」と考えられるようになっている。この苦悩を語り、死を覚悟した悲痛な手記全体のわずか一部分からではあるが、窺えることは自殺をしようとするベートーヴェンの遺書などではなく、むしろ、病気による体力と気力の衰えから、いつ死ぬかもわからないという危機感が書かせた遺言であって、同時にその日が来るまでは芸術家としての使命を全うしたいという強い決意の現れと解釈できるのである。

未投函のまま生涯にわたって机の中にしまい込まれたことにこそ、ベートーヴェンが誰のためでもなく、自分の新たな生への決意を強めるために認めた手記という性格が浮かび上がってくる。

現在のハイリゲンシュタットは、トラム(路面電車)を使ってウィーンの中心部からわずか30分くらいで行ける。木々が多く残り、まるで別荘地のような美しい住宅地になっている。『田園』の第2楽章に出てくるといわれる小川(シュライアーバッハ)に沿って、"Beethovengang"(ベートーヴェンの道)という名がつけられた日蔭の多い気持ちのいい散歩道になっている。ゆるやかに道を上っていくと、小広い場所に木々に囲まれたベートーヴェンの胸像(1863年6月15日建立)があり、そこでベートーヴェンが『田園』の楽想を練ったといわれている。

1817年弦楽四重奏曲作品104を作曲した家は、カーレンベルガー・シュトラーセ26番地であり、遺書の家とは違う。他にもグリンツィンガー・シュトラーセ64番地(1807年、田園作曲)、デブリンガーハウプトシュトラーセ92番地(1803年夏、エロイカハウス)、プファールプラッツ2番地(1817年)の家が点在する。

ベートーヴェンは散歩が好きで、よほど体調が悪くない限り雨の日でも欠かさなかった。散歩には必ず五線譜と筆記用具を携帯し、楽想が湧くとメモしていた。時に手を振り回して拍子をとり、妙な旋律をうなりながら、雨の中を歩くベートーヴェンの姿は道行く人の目にどう映ったのだろうか。

ハイリゲンシュタット
ハイリゲンシュタットにあるベートーヴェンの家

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