第2章 ベートーヴェンの生涯




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第15節 甥カールの自殺


第2章 ベートーヴェンの生涯

5月23日の日曜日の昼に大レドゥーテンザールでの『第九』の再演を終えると、ベートーヴェンはただちにバーデンに向かい、11月までの約半年間の滞在で、ガリツイン侯から依頼されていた弦楽四重奏曲3曲のうち、まず変ホ長調作品127を完成させ、さらに前半から1曲ずつ書きためていた『6つのバガデル』作品126を完成させている。

1825年も引き続き弦楽四重奏曲の作曲に精を出しているが、この頃には再び腸の病気が悪化して吐血するほどになっていた。それでも創作は続き、その第3楽章に「病癒えたる者の神に対する聖なる感謝の歌」と記すことになる美しい楽章をもった弦楽四重奏曲イ短調作品132を一気に書き上げた。

そして10月15日にはウィーンに戻り、最後の住居となるシュヴァルツシュパニエルハウス(黒いスペイン館)の三階の1室に新しい住まいを定め、作品130の作曲に打ち込んでいた。この借家の近くにはボン以来の友人であるブロイニング家の住まいもあって、親交が再びあたためられている。恐らくそうした関係からであろうが、この暮れになるとシュテファン・ブロイニングの妹であり、ベートーヴェンの初恋の女性であり、そして親友ヴェーゲラーの妻となっていたエレオノーレから10年ぶりの親愛の精のこもった手紙などをもらい、精神的に安定した生活を送るようになっていた。

1826年になると新作の四重奏曲の試演や作品130のための新たな終楽章の作曲、そしてさらに新しい「嬰ハ短調」弦楽四重奏曲の作曲などに集中することになり、初夏までウィーン市内で作曲の仕事を進めていたが、ここでベートーヴェンの生涯で最大の痛恨事となる事件が起きたのである。甥カールがピストルで自殺未遂をはかったのだ。カールは前年まで通っていた大学を中途退学して実業学校に通っていたのだが学業についてゆけず、ベートーヴェンが大金を払って家庭教師をつけたうえ、弟のヨーハンやこの頃秘書であったカール・ホルツに命じて、カールの監視をするような状況になっていた。恐らく精神的に追いつめられていた20歳のカールにしてみれば、自分への周囲の期待の大きさに押しつぶされるような思いをしていたのであろう。腕時計を質種にして2丁のピストルを入手したカールは、7月29日にバーデンに向かい、何度も伯父ベートーヴェンと登ったことのある美しいヘレーネ渓谷の遺跡ラウエンシュタイン城趾で、ピストルを左のこめかみにあてて弾丸を発射したのである。幸いにも弾は頭皮を裂いたものの頭蓋を貫通することなく命をとりとめたのである。偶然通りかかった人に助けられ、ウィーン市内の母親の家まで運ばれたのである。ただちに外科医の治療を受けさせ、傷口は思いのほか軽傷で済んだのだが、当時のオーストリアでは自殺行為は神に対する冒涜(ぼうとく)との考えから重罪に処せられる法律があり、当初ベートーヴェンは外科医に口止めしていたが1週間後の8月7日にはホルツを代理人として警察へ届け出をしたのである。カールは司直の手により強制的に病院に入院させられ、取り調べと救世主会司祭による厳重な警告を受けて9月25日に釈放されたのである。

この間のベートーヴェンの精神的苦痛は想像にあまりあるのだが、そうした悩みを押し殺すかのように創作に打ち込み、2曲の弦楽四重奏曲の筆を進めていたのである。「商社マンになることをあきらめ、軍人になりたい。」というカールに大反対したベートーヴェンだったが、ブロイニングなどの友人たちに説得されて渋々承知したのだった。

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