平和のためのポーランド 第九コンサート・ツアー

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2002.10.7MonO?wi?cim /O?wi?cim /O?wi?cim

7:00 起床

7:45 朝食(7~12班)
8:15 朝食(1~6班)

8:50 ホテル前集合

私たちの出発を追いかけるかのようにザブジェ市スポーツ文化担当官ヴィルク氏がホテルへ。
「全団員をザブジェ名
誉市民とする。」という決定と名誉市民バッジが渡されました。
ザブジェ名誉市民となり、意気揚々と再びポーランド国内への公演意欲を高めた私たちは、ザブジェ市を離れる前に「赤とんぼ」を歌ってお別れしました。
    

    
9:00 ザブジェ出発
10:30 オシフィエンチム着
(ポーランド語:O?wi?cim)
(ドイツ語:Auschwitz)

バスはオシフィエンチムへ向います。途中、通行に邪魔になる木の枝を切ったり、高さすれすれのトンネルをくぐったり、沿線はのどかで静かな村々が続きます。

オシフィエンチム駅が鉄道の要衝だったことがこの街の不幸のはじまりでした。

強制収容所

跡地見学・献歌

1班~4班中谷さん
5班~8班ウルシュワさん
9班~12班エベリナさん

 アウシュヴィッツ強制収容所、ポーランド語でオシフィンチムは、強制収容所から絶滅収容所へその機能を転換していき、ここで28の民族150万人といわれる人々の命を奪いました。銃殺により多くの犠牲者を出した「死の壁」。その前でポーランドに伝わるミサ曲をポーランド語で献曲しました。選曲は唯一の日本人公式ガイドの中谷氏に昨年依頼し、日本では手に入らない楽譜を取り寄せて今日まで練習してきました。哀しみと同情しきれない悲惨さに、どの団員の顔からも笑みが奪われました。

 公式ガイドで日本語が話せるのは中谷さんだけ、全員にガイドするためにはアリシアさん、リチャードさんも早速打ち合わせ

左)アウシュヴィッツ公式ガイドとして唯一日本人の中谷剛氏
右)当団渡辺義之団長

ここは中谷剛さんが日本を見つめなおす契機にと日本人でただ一人のガイドをしています。1~4班は中谷さんにガイドをしていただきました。

ここには犠牲者の遺族の方々もたくさん来るので騒いだりしないよう注意を受けました。

有名な「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)」のゲート、収容者が作った逆さの「B」わかりますか?  
      

世界遺産アウシュヴィッツ強制収容所跡地「死の壁」前でミサ曲献歌

指揮:赤羽洋子 合唱:高崎第九合唱団(ア・カペラ)

「Pan Bog wszechmog?cy」、「Chwal, duszo ma, Pana mego」、 「Scz??liwy Cz?owiek Prawdziwie」、「Ach moj Jezu(Pie?ni na wielki postより)」
(アウシュヴィッツ日本人公式ガイド中谷氏選曲、献歌許可)
    
死の壁の前でポーランドミサ曲を献歌し、各国からの見学者の無言の支持を得た

 死の壁は10号棟(左)と11号棟(右)の間にあり20万人の銃殺に使われました。
みんなシーンとし、真剣な表情で、囚人たちが銃殺された壁の前で手を合わせました。
献歌のミサ曲を4曲ちゃんと歌うことができるのだろうかと心配し、涙がでてきそうになるのを必死に抑えて歌に集中し、何とか歌い上げることができました。

 世界各地から絶え間なく見学者が訪れているため、歌い終わったときには多くの見学者に囲まれていました。
 どこの国の人たちも私たちが一心にミサ曲を歌っている姿に、ただただ無言で見入っていたようです。

 オランダの少女アンネや当時のリトアニア駐在の外交官で、日本の法律にふれるのを覚悟で多くのユダヤ人に独断でビザを発給した杉原千畝氏のことなどが頭に浮かびました。ここで起こったことは決して忘れてはならないことであり、後世に語りつがなければならないことだと思います。

 寛容さを無くしたときオシフィエンチムの脅威が再び起る可能性が有り得るからです。2001年9月のテロ事件からの紛争等、今まさに第三次大戦が起こるのではと思うのは、考えすぎでしょうか、今でも繰り返される人類の過ち、犠牲になった人のことを思うと涙がこみ上げてきます。

 死の壁等の虐殺施設は他の囚人から見えないよう壁に囲まれています。厨房や管理等のみ平屋建て。収容施設は、増え続ける囚人にあわせすべて二階建てにされました。現在の収容施設はテーマ別展示ブースです。

6万Vの電流が流されていた高さ4mの有刺鉄線のバリケードの痕

収容施設内の展示ブースは目を覆うものばかり。
収容施設の立ち並ぶブロックを出て、ガス室・焼却炉を見学しました。
また見学に耐えられない人が数名出ました。
これだけ大勢で見ていても怖いものでした。

中谷 剛さんからのメッセージ

日本人はよくここを気持ちの悪い場所と言います。決してここは気持ちの悪い場所ではない。第一の考えとしてここはお墓なのです。いまでもここで亡くなられたたくさんの方の遺族がお花を持って訪れてきます。

ユダヤ人は何をしたのか?ユダヤ人に理由を求めないでください。彼らは日本人や他の民族と変わらない普通の人間です。こうしてドイツ人の作った音楽をポーランドに歌いに来ているあなた方と変わらない人間です。そしてドイツ人も。 

ここで見たこと、聞いたこと、感じたことを日本に帰ってもう一度考えてそしてまた5年後にここへ戻ってきてください。

13:30~15:00 昼食

ホテルGLOBのレストラン

カツレツがメインのランチ

オシフィエンチム駅のそばで昼食です。温かみを取り戻させてくれたランチ、黒スグリジュースも。醤油…、っぽいものもありました。


食事後の一服が至福の時間ですね。

レストランを出て、ホテルのあるクラクフへ向かいます。

15:15 レストラン出発
16:10 ホテル着
16:20 フリータイム

<クラクフ旧市街組>

希望者は注意を聞いたあとクラクフの街へ(約90名)

バスに乗って旧市街地入口へ。旧市街地の中央広場にある織物会館に、名物の琥珀がたくさん売っており、ここのものはすべて本物だと聞いて、奥様方の目がキラリ。柴田さん曰く

「織物会館はお土産天国です!ということはドロボー天国です!!皆さま、手荷物には充分お気をつけください!!解散!」

一斉にお店に走りました。琥珀や木でできたおもちゃ、レースのファブリック類、皮製品等、それぞれお土産を購入。値切ったり、質問してみたり、お店の人とのやりとりを楽しみました。自慢のお土産を手に集合場所に来てみれば外はザーザー降りの雨。必死にお土産を守りながら(!?)みんな帰りのバスに乗り込むのでした。
    

<大型スーパー組 ソプラノ 桑原幸代>

私たち8人は富山さんにくっついてトラムに乗り郊外の大型スーパーへ。

待ち合わせの時間と場所を決めてそれぞれお目当ての場所へ。お土産用にポーランド製のお菓子をたくさん買い込みました。それにしても、日本とぜんぜん金額が違います。レジで後に人が並び少々緊張・・・。

スーパーからの帰りは集合時間ぎりぎりになってしまったのでタクシーに乗りました。ホテルへ着いたら、もう皆さん集まっていました。あっという間のフリータイムでした。

食事のあと私たち6人は、今度はクラクフの旧市街地へ

富山さんが住んでいた大学の寮が、ホテルの近くだったので歩いていってみました。その後、バスで旧市街地へ行きました。午後10時近くなっていたので、人通りも少なく静かでした。帰りは電車とバスを乗り継いでホテルへ戻りました。

19:00 ホテルで夕食

ホテルでの夕食、ネギに困惑していた人もいたのでは?

ノヴォテル・ホテル
Hotel NOVOTEL

Krakow Bronowice Al. Armii Krajowej 11
TEL:012-6375044

オシフィエンチム()/ドイツ名:アウシュヴィッツ(Auschwitz)

人類負の遺産は1979年に世界遺産(文化遺産)に登録されました。

ポーランド南部に現存するオシフィエンチム(アウシュヴィッツ)、ブジェジンカ(ビルケナウ)の2収容所のうち、アウシュヴィッツ強制収容所跡地を見学・献歌しました。実態は強制収容所から絶滅収容所へその機能を転換していきました。

この強制収容所はアドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツが建設した施設です。虐殺された9割が欧州各地から強制移送されたユダヤ人ですが、政治犯、ユダヤ人をかくまったりしたポーランド人なども殺されました。収容者は名前の変わりに番号が付けられ髪を刈られ縦縞の囚人服を着せられました。大人だけでなく子供も収容されました。特に双子などは格好の生体実験の対象にされ、ゲルマン民族のみを生かし、より優秀なものにしようとしました。夏は朝3時、冬は朝4時に起こされ働かされます。

当初はすべて平屋建てのものを、増え続ける囚人のために増改築し、厨房や管理棟以外2階建てとしました。狭い部屋、わらやレンガ積の三段ベッド、栄養失調と不衛生による感染症、寒い冬によって、多くの者が命を落としました。列車で送り込まれる人々のうち、労働力にならない者はすぐガス室へ送られチクロンBにより絶命しました。それらの死体から、髪の毛は生地にして洋服を作り、金歯を集めて金の延べ棒にしました。残され積み上げられたメガネ、くつ、カバン、義手義足の膨大な量に声が出ません。死体も焼却が間にあわなくなると、野積しガソリンにより焼いた写真が残っていました。

高さ4mの有刺鉄線のバリケードには6万Vの電流が流されていました。しかし囚人の中には写真家や画家もおり、収容所での生活の様子が外部のポーランド人を通じ戦後まで保管されてきました。


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